末吉、海軍記念日に話す
カテゴリー: 護國日誌
2012年5月27日 日曜日

愛媛縣護國神社裏千家流茶道教室

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(詳しくはコチラをクリック)

第五回稽古日 6月9日 13時~17時(森光宗芳先生)

第六回稽古日 6月10日 10時~15時(江戸宗禮先生)

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こんにちは、

人生楽笑(じんせいらくしょう)末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

本日は海軍記念日。

明治38年、我が郷土出身、参謀秋山真之閣下の丁字戦法により、

ロシアバルチック艦隊を撃滅した、記念すべき日であります。

 

末吉、

朝拝の前に海軍戦没者慰霊碑にお参りしました。

さて、

4月7日、茂木史朗命の記事を書いたのを覚えてますか?

詳しくはこちらをご覧になってください

  ↓   ↓   ↓

http://www.gokoku.org/topics/?p=4269#comments

この記事に対し、、

ここ数日、戦艦大和、第二艦隊戦没者のご遺族の方々からコメントを頂戴し、

末吉、超興奮しております。。。

まさか、このような多くの方々からコメントを頂戴するなど、

夢にも思いませんでしたので、嬉しくてしょうがありません。

改めて、S様、関係各位の皆様方、本当にありがとうございました。

 

郷土出身の御祭神であります、茂木史朗命。

愛媛万葉苑保存会 藤原 茂氏が書かれた文書がありますので、

海軍記念日の本日、ご紹介したく思います。

 

戦艦大和に眠る

県人茂木航海長

(藤 原  茂)

 先日漸く呉の「大和ミュージアム」を見学することができた。実は映画「男たちの大和」のロケ用に一部実物大の

「戦艦大和」が再現され、映画と共に好評で、世間の話題をさらった時期があった。

 そのころ私はその大和の羅針艦橋に立ってみたいと念願していたが、果たすことはできなかった。大和には第一艦橋(昼戦用)と第二艦橋(夜戦用)があって、第二を羅針艦橋と呼んでいる。海底に眠っている戦艦大和のその羅針儀には、わが身を結わえて艦と運命を共にした県人の茂木史郎航海長(大佐)が眠っておられるからである。

 私は映画を観て暫く経ったころ、偶然にも茂木航海長のお墓が市内桑原町桑原寺(宗賢寺)にあることを知り、早速お参りしたことがある。

 お墓は境内の一角に立派な五輪と墓碑があり、墓碑には一㍍余りの「戦艦大和」の勇姿が焼き付けられていた。

正五位勲三等旭日中綬章故海軍大佐茂木史郎の碑と刻まれた墓碑には、「明治三十八年温泉郡桑原村に生まれる 松山中学校四年終了後海軍兵学校に進み大正十四年七月同校卒業 昭和十四年一月から海軍兵学校教官を務めたあと…中略…昭和二十年二月には戦艦「大和」の航海長に就任する…中略…同艦は沖縄上陸の米軍に対する菊水一号作戦に海上特攻出撃…中略… 四月七日艦載機延べ三百機の波状攻撃を受けてついに十四時二十三分九州西南方五十海里の海中に没した…中略…航海長は艦橋の主羅針儀に身体を縛り退艦勧告にも耳を貸すことなく艦と運命を共にした 享年四十歳 平成四年八月 建之」とあった。 

 恐らくは、平成四年といえば、五十回遠忌を前にして、永らく耐え忍んでこられたご遺族が、万感の思いをこめて建立されたものであろう。

  ミュージアムの十分の一の模型は、世界最大といわれた戦艦大和を偲ぶには余りにも貧弱すぎたが、館内の資料等から十分な理解と感銘を受けることができた。

改めて当時の状況を再現すると、四月七日十四時十二~七分ころ第四波の猛攻撃を受け、副長の「傾斜復旧の見込みなし」の報告で、有賀艦長は「総員最上甲板」を発令。茂木航海長に「艦を北向きに」と下命した。伊藤艦隊司令長官は「作戦中止」を命令。幕僚をねぎらった後「私は残るがお前たちはすぐ駆逐艦を呼んで移り艦隊を収拾しろ」と命令された。皆が「長官も行きましょう」と申し上げると「私は残る。君たちが行くのは私の命令だ!」と厳命して長官室へ消えた。

 その後艦長有賀大佐は、防空指揮所中央の主羅針儀に、航海長茂木大佐は艦橋の主羅針儀に、それぞれ身体を縛り退艦勧告にも耳を貸すことなく艦と運命を共にされた。

 古くはタイタニック号のスミス船長のように、艦船と運命を共にするのは海の男の美学でもあった。しかし戦況が厳しくなってからは、わが海軍では人材の徒な損失を防ぐため「沈没に際して、艦長は艦と運命を共にする必要はない」という通達があったようだが、艦長や船長にとっては、沈み行く艦船からの退去は、耐え難い行動なのであろう。

私も学生のころ、乗っていた輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没した。漂流しながら、船長が挙手のまま波間に消えてゆくのを目撃したが、その光景は今も脳裏から離れない。

さきの大戦では多くの人材が国に殉じているが、ここにもまた、郷党の先人に続いたであろうあたら逸材が、国のため至誠に殉じていたのである。因みに戦艦大和と共に散った県人は十八名である。せめて大和を語る時には、彼ら殉国の士にも思いを寄せ遺徳を偲びたいものである。

 

 

~本日の予定~

①第四回稽古日 5月27日 10時~15時(江戸宗禮先生)

②海軍記念日

   

~明日の予定~

①特にありません

         

~明後日の予定~

①末吉、お休みです

コメント / トラックバック4件

  1. 藤原 茂 より:

    末吉 様
     Sさんからのメールで記事を知りました。
    5年前に書いたものですが、お陰でいくらかお役に立てて何よりでした。
     今朝も総合公園の山頂のラジオ体操の席で「海軍記念日」が話題になりましたが、意味を知っている人はごく僅かでした。坂雲の町でこの有様。歴史を大切にしないと、この日本はどうなるのか心配です。歴史を正しく伝えるのは戦争体験者の私どもの役目でもありますが。それのできる人も時間も残り少なくなっています。

  2. 末吉 より:

    藤原 茂様
     
    いつもお世話になっております。
    S様からご連絡頂き、お送り頂いたのが海軍記念日の前日でしたので、これも何かの縁と思い掲載させて頂きました。
    坂の上の街づくりを推進している松山市にあっては、
    やはり『海軍記念日』『陸軍記念日』は郷土出身の方々が中心となった戦役ですから、市民、県民を上げて奉祝すべき日にしなければならないと考えます。
    今では恐らく靖國暦にしか記載がないのではないかと思いますが、県内の業者さんや役所でもカレンダーなどに表記すべきでしょう。
    おっしゃるように時の流れには逆らえません。
    もちろん、お話をお聞かせいただける場を作ることも大切ですが、それを受ける側の体制づくりも急務でしょう。

  3. S より:

    茂木中佐の件につきましては、
    中佐のお孫様、また藤原茂様
    また他の戦艦大和のご遺族関係者など、
    反響が数多く寄せられ、
    望外の喜び、感動、嬉しさで
    心が一杯です。

    さて、4月7日の末吉様の日誌を
    色々な方にお伝えしたところ
    松山市生まれで現在神奈川県在住の、
    松山南高から
    防衛大学にすすみ卒業後、
    海上自衛隊に入られ定年で
    退職されるまで、海上自衛隊呉地方総監
    など、数多くの役職を歴任された
    山田道雄様という方が
    先日、帰省してお墓参りした所感の
    メールを頂きました。

    内容が感動的で、
    メールの内容公開について
    山田様ご本人の
    ご快諾を得ましたので、以下に紹介
    させて頂きます。

    ※)以下引用
    実は毎年参加している金毘羅宮での掃海殉職者追悼式
    http://www.jpsn.org/free/cap_cabin/2011/1018_amenishizumaru/
    に26日参加し、その足で松山に帰省しました。

    27日偶々予定が空いたので
    先般いただいた貴方からの情報を思い出し、
    桑原寺に行ってきました。
    最初は寺の名前が思い出せず、
    そのうち町名と同じだったことに気付き
    地図を見て確認しました。
    意外と帰省先の鷹子に近く歩いて訪ねました。
    やっと桑原寺を探し当てましたが、
    茂木航海長の墓所はすぐ分かりました。

    かなり広い墓所でしたが、
    草が伸び墓前の花も枯れていました。
    近くのスーパーで
    菊の花、線香、「大関」1缶を買って来て、
    ざっと草を抜き花を活け
    墓前の湯呑に大関を注ぎ、
    小生は缶のまま40歳で散華された
    大先輩と杯を交わしました。

    因みに小生が40歳の時は、
    やはり2等海佐で「やまぐも」
    というわずか 2000トンの護衛艦艦長、
    ソ連の空母「ノボロシスク」艦隊を
    単艦追従したことを思い出しました。
    後で気づいたのですが、
    奇しくもこの日は海軍記念日でした。

  4. 末吉 より:

    S様
     
    いつもコメントありがとうございます。
    4月7日のS様の投稿からはじまり、
    大和にかかわられた方々のご遺族からもコメントを頂戴し、
    信じられない気持ちでいっぱいであります。
     
    これが、
    大和のみならず、
    愛媛県御出身の英霊をはじめ、
    全国二百四十六万有余柱英霊のご遺族、
    一般の方々に至るまで、
    このような気運が少しでも高まれば、
    日本はもっと変わることでしょう。
     
    沖縄水上特攻が
    『日本を護るためのさきがけ』
    となったように、
    『日本を再興させるためのさきがけ』
    となれば・・・そう考えます。
     
    いずれにしても、
    末吉、非常に嬉しく、連日興奮しつつ、
    ドキドキしながらコメントを覗いております。
    この場をかりて、
    改めて御礼申し上げます。
    本当にありがとうございました。

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