末吉、ミッドウェー海戦の投稿を話す
カテゴリー: 護國日誌
2012年6月5日 火曜日

愛媛縣護國神社裏千家流茶道教室

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(詳しくはコチラをクリック)

第五回稽古日 6月9日 13時~17時(森光宗芳先生)

第六回稽古日 6月10日 10時~15時(江戸宗禮先生)

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こんばんは、

人生楽笑(じんせいらくしょう)末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

日付が変わって、6月5日。

昭和17年の今日、世に言う『ミッドウェー海戦』

日本海軍が痛恨の一撃を期した日です。

 

浅学菲才の末吉がご説明すると非常に長くなり、

且つわかりづらいと思ってた矢先に、

いつも貴重な資料を頂戴し、

いつも貴重なご意見、投稿、コメントを頂戴するS様から、

ミッドウェー海戦について投稿を頂きました。

 

是非護國日誌に掲載したいのですがとお申出したところ、

御快諾頂きましたので、

ミッドウェー海戦の本日、掲載させて頂きます。

以下、添付です。

 

Sより

ミッドウェー海戦では日本の機動部隊(司令長官 南雲忠一海軍中将)は主力の空母4隻

(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)を失いました。

この写真は、「飛龍」「蒼龍」の第二航空戦隊を率いて戦い、

空母「飛龍」と艦と運命を共にした山口多聞海軍少将です。

隣(左横)は山本五十六連合艦隊司令長官が、少将の死を悼み詠んだもので、

「海の子の雄々しく踏みて来にし道に君立ちつくしつ神上りましぬ」

という和歌です。

 

今年は海戦から70年目です。

生き残った方々やご遺族は各地に「飛龍会」を結成し、

散華した将兵の慰霊顕彰に努め日々を過ごされてゆきます。

乗組員には四国出身者も多く、四国在住の方々により昭和40年代半ば

「四国飛龍会」が結成され、平成10年代後半頃まで

毎年四県の持ち回りで慰霊祭など熱心な活動を行ないます。

 

生存者は今四国には殆どおられませんが、

艦上攻撃機搭乗員として真珠湾攻撃以後の戦闘に参加し、

昭和17年4月インド洋英東洋艦隊の拠点セイロン島(現スリランカ)の

軍港ツリンコマリーを爆撃し帰投中敵機の銃撃で目を負傷し、直後に

治療のため飛龍を退艦した城武夫さんという方が香川県にお住まいです。

回復後終戦までは主に搭乗員教育などに当たり、

戦後は農協勤務を経て、郷里香南町教育長を17年間、

その後地元老人クラブ会長や県老人クラブ連合会会長などを歴任し

今も93歳で、お元気で過ごされています。

 

先日、お電話で改めて山口司令官の最大の思い出を伺いました。

飛龍を離れるとき、

「早く目を直せ。これからはもっと搭乗員が必要だ。教育方面でしっかりやってくれ。海軍をやめるな」

という趣旨の言葉と、握手をした柔らかい手のぬくもりが

最も感動印象深いもので今を忘れられないと言っておられました。

 

また大分前に亡くなられた松山郊外で農家の傍ら、

飛龍会のお世話をされたA・Sさんという方は、

亡くなるまでほぼ欠かさず愛媛縣護國神社に建立されている

「海軍戦没者慰霊碑」を月に1、2度は必ず訪れ清掃しお参りされていました。

今でもその姿は脳裏に焼き付いています。

 

戦歿者、またその慰霊に黙々と尽くされて来た、

郷土の人々、またその縁の人々の姿や真情に光をあて、

言葉で紡いで語り継いで行くことは、

慰霊顕彰の大きな一つの営みだと思います。

今の郷土に生きる私どもの足下には、

こうした先人たちの高貴な事実が

もっと多く埋もれているのではないかと改めて感じます。

  

※ 城氏のお名前、年齢、ご経歴は、山口少将の言葉の要旨は、城様ご本人の了解を得て紹介させて頂きました。

  

様は、

山口多聞命のような将官から、

一兵卒に至るまで、非常に詳しく、細かく勉強されており、

英霊に対するそのお気持ちは人一倍強いものが窺えます。

そんなS様に、末吉はいつも頭が下がりっぱなしです。

 

S様、このたびの投稿、

心より感謝申し上げますとともに、

少しでも多くの方々に読んで頂けることを願ってやみません。

 

 

~本日の予定~

①ミッドウェー海戦

②末吉、お休みです。

 

~明日の予定~

①特にありません

 

~明後日の予定~

①特にありません

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