末吉、原爆の日に思う
カテゴリー: 護國日誌
2010年8月7日 土曜日

こんにちは、末吉です(⌒▽⌒)

昨日、一昨日と連休を頂いたにも関わらず、暑さのため家でゴロゴロしてましたwww

と、そんな中、昨日は

8月6日、

広島原爆投下の日。

8時15分には、ちゃんと広島へ向かって、黙祷を捧げました。

 

突然ですが、末吉の爺様のことを少し。

(末吉は他界すると○○様と読んでいます)

末吉の母方の祖父は、当時呉海軍工廠にいました。

そこから、広島、山口方面に向かい、毎日仕事をしていたそうです。

昭和20年8月6日午前7時頃、

いつものように列車に乗って作業に行くため、広島市内で荷物を積んでいました。

午前8時頃、山口県との県境に近い、大野浦(旧大野町)というところに到着。

作業を始めようとしていた矢先、

眩い閃光の後、ものすごい音がしたそうです。。。

振り返ると、あのキノコ雲が・・・

『こりゃ、大変だぁ!』

と、作業を中止し、慌てて広島市内に戻ったそうです。。。

 

広島市内に着くと、1時間ほど前の光景とは全く違い、

一面焼け野原になっており、

広島駅から、宇品(港)の向こうの海まで見えたそうです。

市内では、被災した人々が、焼け爛れた手を前に出し、

水を求めてさまよっていたといいます。

多くの人は、黒焦げになり焼死。

いたるところで、うめき声が聞こえ、

逃げ惑う人々と、助け合う人々が交錯し、

本当に、大混乱、、、

地獄絵図とは、まさにことのこと。

と、末吉によく話してくれました。

(話し始めると2時間くらい喋ってました、しかもかなり詳細に)

 

爺様は、原爆のこと、呉海軍工廠のこと、戦艦大和のとこなど、

いろいろ話を聞かせてくれました。

しかし、平成17年1月31日、

13年間のガンとの闘病生活末、77年の人生に幕を閉じました。

原爆投下直後、少しでも力になれればと、市内のあちこちを走り回ったのがいけなかったのかな?

と、晩年になってこぼしていました。

 

結局、原爆との因果関係はわからずじまいでしたが、

末吉ももしかしたら、被爆2世?なのかもしれません。。。

 

余談ですが、この爺様、

ものすごく面白い人で、

『葬式には、子供も連れて必ずこい!』

と葬式に招待したり、

『そうだなぁ~、、爺さんは、ボインが好きだなぁ・・・』

と、突然突拍子もないことを真顔で言ったり、

『食道をレーザー治療したから痛くてご飯は食べれんが、おとんと(お酒)は飲める』

と、困らせてみたり・・・

でも、

末吉にとっては、本当にいい爺様でした。

『人に迷惑をかけるな!』

『男は泣くな!』

『ご飯は残すな!』

当たり前のことですが、それを徹底的に言われてました。

 

 

皆さんの身内には、戦争の話をしてくれる人がいますか?

 

もしそのような人がいるなら、是非、いまのうちに聞いてください。

でなければ、30年後、50年後になると、

その話は聞けなくなります。

そして、それを後で調べようとしても、

もうできなくなります。

 

このような話を聞くからこそ、

戦争はいけない!

と心から思うのだから。。。。

コメント / トラックバック2件

  1. 六時 より:

    お疲れ様です。

    コーラ用象印の魔法瓶用意しましたか(笑)?

    言われる通り教科書などで戦争の悲惨さを知るより、生き証人とも言うべき方々のお話を聞いた方がリアルで勉強になるし、心に残りますよね。

    その語り部とも言う方々がこの先居なくなってしまうのがとても残念でなりません。

    勝てば官軍負ければ賊軍、戦勝国が全て正しい。その当時全ての罪を負わされた代償で、古き良き日本の伝統・文化、日本人の性質をも変えられ、何か長いトンネルから抜け出せないでいるように思います。

    教育勅語12の徳目のように当たり前のことを大事にする日本人でありたいものです。

  2. 末吉 より:

    六時様
     
    魔法瓶どころか、クーラーボックスまで用意しとりますが・・・www
     
    なんだか一年が早く感じますよね。
    残念ながら、戦後生まれが大半を占める昨今、
    同時に、伝統文化の変化のみならず、
    戦争の真実ですら湾曲され、それが恰も本当のことのようにさえ植えつけられる教育www
    いつまでも、過去にしがみつく政府www
    全く持って、ダメダメですよね。。。
     
    ホント、教育勅語をもう一度勉強しなきゃダメな世の中になってきましたねwww

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