末吉、武蔵の写真を見て申上る
カテゴリー: 護國日誌
2015年3月4日 水曜日

こんにちは。

一日一笑(いちにちいっしょう)

人生楽笑(じんせいらくしょう)

末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

幼いころのこと。

『じいちゃんが呉海軍工廠に居った頃、

 ある日呉の海岸に目隠しのように塀がずっとできてな。

 工廠で何を作りよるかわからんようになったんじゃけど、

 大和はそんな大きさじゃなく、

 塀の上から頭を出して出航しよったわい。

 そりゃ~、山やビルが動くようなもんで、

 初めて見たときはびっくりしたわい!』

 

その話は幾度となく聞かされ、

ややもすれば、

見たことのない末吉が

工廠の軍属であったかのように話ができるほど。

 

戦艦大和は非常に有名で

よく映画や小説になり、

アニメ『宇宙戦艦大和』のモデルにもなりました。

しかし、

同型戦艦武蔵は以外と知られていません。

 

戦艦武蔵は

大和型二番艦として、

昭和13年三菱重工長崎造船所で大日本帝国海軍が最後に建造した戦艦です。

 

仕様などの詳細はウィキペディアなどをご覧いただければと思いますが、

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

大和型というだけあって

とにかくでかい!

 

今でこそ、

大型タンカーなど30万トン級の船はたくさんありますが、

 

当時の6万5千トンの

しかも戦艦など、

世界を探してもおそらく日本だけでしょう。

畏くも

昭和帝が行幸された砌の写真も残されている武蔵。

 

しかし

昭和19年10月20日。

レイテ沖海戦勃発とともに武蔵を含む連合艦隊も出撃。

昭和19年10月24日、

魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受け

それでもなお交戦していたといいます。

艦長は猪口敏平海軍少将。

海からは連合艦隊が、

空からは郷土出身関行男命をはじめとする零戦特別攻撃隊が

米国艦隊のフィリピン奪還を防ごうと

文字通り命を捧げて戦われました。

 

武蔵沈没後、

長きに渡り詳細は不明でしたが、

その写真が世に出ました。

深海1000メートル、

在りし日の姿と変わらず、

船首は大和と同じ。

察するに、おそらく

多くの将兵がここに立ち、

出撃させたかと思うと

万感胸に迫ります。

 

終戦から七十年。

英霊の凛々しき姿を想い

神前奉仕ができる喜びをあらためて感じました。

 

嗚呼

日本人で良かった。

そして

英霊に感謝。

 

 

~本日の予定~

①特にありません

  

~明日の予定~

①靖國神社岡村主典正式参拝 午後3時~

 

~明後日の予定~

①末吉、会議です(更新できませんw)

コメント / トラックバック2件

  1. 匿名 より:

    時折楽しく拝見させて頂いております。
    掲載されておられますお写真の一枚目は『戦艦長門』でしょうか?、二枚目は『戦艦武蔵』でしょうか?、三枚目は米国海軍『サウスダコタ』でしょうか?

  2. 末吉 より:

    匿名様

    初めまして。
    投稿担当の末吉と申します。
    閲覧並びにコメントありがとうございます。

    よく御覧になられてますね~w
    末吉、全て武蔵と聞いて掲載したのですが
    一枚目は主砲も二門ですし長門のようですね。
    違いを見抜かれたのはすごい!
    ご指摘ありがとうございます。
    違ってましたので削除しておきますm(_ _)m

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