末吉、忘れないように語る
カテゴリー: 護國日誌
2011年10月24日 月曜日

『元気な日本をとりもどそう!』

 

 

こんにちは、

『人生楽笑』末吉です(⌒▽⌒)

 

一昨日、匿名様からコメントを頂戴し、

その中で、

『神風特別攻撃隊』という本のご紹介がありました。

 

末吉、

早速帰って、本棚をあさってみると、

あ~りました、ありました!

 

これだぁ!!!

  ワン!

  テュ~!!

  テュリ~!!! 

(1,2,3と言ってるつもりですw)

まさに、

67年前の今頃のことが克明に記されており、

明日の『公式特攻の日』を前に、

もう一度読み返そうと思って居ります。

 

平和な世の中が続く昨今、

多くの人々はそれが何故、如何にして、

やってきたのか・・・

全く考えようとしません。

むしろ、

それが当たり前のごとく思うでしょう。

 

現代社会を鑑みたとき、

英霊の

国家国民を想うその純真無垢なお気持ち・・・

靖國の桜は・・・

きっと泣いていることでしょう。

 

そんな時代になってしまったからこそ、

そろそろ本気になって、

英霊に安らかにお鎮まり戴くことを、

考えないといけないのではないでしょうか?

 

末吉、

それを決して忘れないようにと、

デスクにこれを置いてます。

『靖國の桜』 

 

 

~今日の予定~

 ①霜降

  

~明日の予定~

 ①関行男中佐慰霊祭(於 楢本神社)    

 

~明後日の予定~

 ①末吉お休みです

コメント / トラックバック4件

  1. アル より:

    はじめまして、思うところありコメント致します。
    私は日本がやったことに全面的には賛同できません。当時朝鮮は支那の属国だったのだから、要は支那のものでした。それを韓国からの申し出とは言え、日本は併合したので、支那領土を侵略したことに他なりません。人口を倍に増やしたり、文化を与えたりしましたが、善し悪しではなく、他国領土云々ということです。今は国家観がないと言われますが、戦前も国家観はあったようには思えません。そもそも国家観云々ということでは、大昔からあったとは思えません。日本の神々を裏切り、仏教を取り入れた時点でもうおかしいのです。天照大御神もお怒りでしょう。一方で大国主神は笑っているでしょう。「大和民族ってのは、自分の神も重視できないのかよwww」みたいな。仏教を取り入れた途端の天然痘、神仏習合した途端の貞観地震、隕石まで落ちてきました。国家観のなさによる神の怒り、ごもっともですね。さて戦前に戻り、彼らがやったことで一番納得できないのは、天皇陛下の意向を無視して、ヒトラーと手を組み、アメリカとやり合ったことです。天皇陛下万歳と言いながら、その陛下をないがしろにして戦争に挑んだ姿は、軍の暴走と言われても仕方ありません。さらに、アジア開放などは開戦の詔勅にもなかったし、東条英機の言葉でもなく、開戦の理由付けとして、重光葵が後からついでに付け加えたことですから、ついででしかありません。何を勘違いしているのか、戦前の日本を善の塊として見る右派は多いですが、アジア開放を目的として戦ったわけではありません。また、ハルノートもそうですが、日本はどこからも攻められていません。支那領土の韓国を併合したから、支那と戦争になり、そこからどんどん他国に出て行くからアメリカに石油を止められたに過ぎません。調べれば調べるほど、過去の日本は本当に良かったのかどうか疑いが出てきます。自虐史観は問題ですが、かといって正統史観でもあまり立派な感じは受けません。ですので、私は英霊というより犠牲者という印象しか受けません。軍上層部による、天皇無視からの戦争犠牲者です。今、核武装や自衛隊から日本軍へ、という向きがありますが、戦前の例にもれず、今においてもかなりの危険を秘めています。私は抑止のための武装であれば歓迎ですが、中には武力行使のために武装しろという意見もあり、なんと、核ミサイルを日本全土に向けている北朝鮮や支那に侵攻しろと言っている人がいるのです。昔の日本人もこんな感じで、絶対に勝てないアメリカに、天皇陛下が反対していたにも関わらず衝突したのかなと思います。天皇陛下万歳と言うのなら、陛下の意向に従うべきであり、それを無視して突っ込んだ人を英霊とは呼べませんし、それに巻き込まれた軍人は犠牲者としか思えません。駄文長文失礼しました。

  2. 路傍の石 より:

    末吉様は、本当に数多くの素晴らしい本を沢山お持ちで、尊敬します。

    いつもブログを拝見しています。可愛い大吉君や四季折々の花々やお祭りの模様など楽しみにています。
    それにしても、護国神社が毎月毎月こんなにお祭りや行事が多いとは知りませんでした。そんな多忙な日々の中でも、ブログを毎日更新されてること感心します。ご苦労も多々あり、様々なご意見やお問い合わせもあると思います。それでも、継続されるその姿勢、想いは英霊に関心のなかった人たちの心を必ず開かせ、いい果実を稔らせると確信します。英霊や正しい歴史(近代史・戦争史)への、開かれた扉です。心身にご留意されこれからもお言葉を拝読させていただきたく存じます。
    私も力及びませんが、PRにつとめます。

    さて、関さんをマバラカットで見送った方の中に、所属されていた201空の副長で玉井浅一さんという方がいます。この方は特攻や関さんを取り上げた本の中に必ず出てくるのですが、愛媛松山出身であることはあまり知られていません。そのご事績がネットで以下に出てましたのでご紹介します。
    ↓   ↓  ↓
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-713.html
    *玉井さんの当時の階級はここでは大佐と記されていますが、中佐だったというのが正確と一般的な見解です。

    今日は10月25日、関行男氏ほか謹んで愛媛県出身の特攻隊で散華された御霊の安らかならんことをお祈りいたします。

  3. 末吉 より:

    アル様
     
    はじめまして。
    投稿担当の末吉と申します。
    閲覧並びにコメントを戴きありがとうございます。
    細かく拝見させて頂きました。
     
    冒頭に申し上げておきますが、
    末吉も未だ勉強中でありますので、この場にて議論をしようとか持論を展開しようとは甚だ思って居りませんし、ましてや、アル様のお考えを云々言うつもりも毛頭ございません。
    それを踏まえたうえで、コメントをお返し致します。
     
    先ず、
    当時朝鮮は支那の属国
    とありますが、
    少し遡ったところからお話しを致しますと、
    日清戦争は、清国と日本が宣戦布告をしており、正当な戦争であります。
    日本が勝利し、日清講和条約、俗に言う下関条約により韓国は大韓帝国として独立をしております
    それは条約の第一条に記載されいます
    以下、添付になりますが、
    ご紹介しておきます。
     
    東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
    [文書名] 日清媾和條約
    [場所] 下関
    [年月日] 1895年4月17日
    [出典] 日本外交年表竝主要文書上巻,外務省,165-169頁.
    [備考] 
    [全文]
    明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印
    明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
    明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
    明治二八年(一八九五年)五月一三日公布
     
    大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ
     
    第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無●{缶へんに欠/ケツ}ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
     
    しかし、その後三国干渉がおこり、
    ロシア、ドイツ、フランスに屈した日本は遼東半島を清国に返還することになりました。
    そして日露戦争へと突入していくわけですが・・・
     
    また、
    独自の宗教観をおもちのようですが、
    そこは「信教の自由」をうたっている現憲法下ですので、
    コメントは控えさせて頂きます。
     
    さて、
    畏くも天皇陛下の意に反し、
    アメリカと戦争をした、
    アジア開放について開戦の詔勅には記されていないかったという点ですが、
    日露戦争以後の国際情勢における日本の立場、また、盧溝橋事件前後の欧米列強の国々の立場、当時の世界における日本の状況や世相を今一度調べていただきますと、それが自存自衛の戦いであり、アジアを開放しようとしたことがわかりますよ。念のため、今一度、日米開戦の詔勅を掲載いたしますので、ご一読下さい。
     
    以下、添付いたします
     
    <原文>
    大東亜戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

    天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
      御 名 御 璽
         平成十六年十二月八日

     
    <現代語訳文>
    神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
     
    現在では、
    当時極秘扱いだった資料なども、少しずつ世にでてきており、日米開戦に至っては、最初の一発をいかに日本に撃たすかを模索していたというのが通説であります。
    また、
    日本軍も勝てると思い開戦に踏み切ったわけではありません。
    それは山本五十六閣下が日米開戦に最後まで二の足をふんでいた理由でもあります。
    確か、宇垣纏閣下の『戦藻録』に記されていたはずですし、そのほかの文献にも日米開戦については記されています。
     
    さて、
    軍上層部による、天皇無視からの戦争犠牲者です
    に関しては、つまり、軍上層部の暴走があったとも受取れますが、確かに一部ではそのようなことがあったようにも思われます。
    それは、末吉が思うに、インパール作戦の司令官M中将であったり、作戦参謀のT大佐であったりと考えています。
    天皇無視というよりは、一部上層部の能力のなさが招いた失策と捉えるべきでしょう。
    大日本帝国の軍隊において、大元帥であらせられる陛下を無視して暴走するなどという暴挙は、先ずありえません。
     
    自虐史観、正統史観につては、個人的な考え方に基づくものであり、歴史観も少し違うようですので、コメントは控えさせていただこうと思うのですが、個人的見解として一つ言える事は、大東亜戦争において、日本軍は決して悪いことをしたわけではありません。それは近代史を正しく学べばその答えは導けるはずです。
    そのために、いろいろな本を護國日誌の中で紹介しているのですが・・・機会があれば、どれでも結構ですので手にとって読んでいただければと思います。
    加筆するならば、現在の支那や南朝鮮が言うような馬鹿なことをまに受ける政府こそ、自虐史観の根源であり、同じ日本人として無能としか言いようがありません。
    一体どこの国の政治家なのか・・・よく考えてほしいものです。
     
    また、
    英霊とは呼べないとのことですが、
    それは人夫々の考え方でしょうから、末吉が強要することではありません。それはご遺族の皆様方にも多少なりともそのようなお考えの方がいらっしゃるのを聞いておりますし、そもそも、戦争なんて誰も行きたくなかったとおっしゃられる方も中にはいらっしゃいます。
    しかし、結局、平和な世の中から過去を振り返るだけでは何もわかりません。当時の世情で生きた人にしかわからないことが多くあるのではないでしょうか?
    現在のように、じわじわと日本国土を侵そうと狙っている国が当時にもあったわけですから、今の裕福な生活とは遠くかけ離れた時代、日本が侵略されるか否かの世界情勢、国家存亡の危機に瀕していた時代に、されるがままでは今の日本は無かったはずです。
     
    末吉たち・・・いや、当社職員をはじめ、護國神社、靖國神社に携わる者、ご遺族、関係諸団体、そして、多くの崇敬者の方々が、
    戦歿者を英霊と尊称するのは、
    その方々が当時、
    大切な家族を守るため、ひいてはそれが万世一系の天皇を中心とし2600有余年続いている大和民族で形成されている日本という国を護るため命を捧げられた、その純粋な想いに対してであることを忘れてはなりません。
     
    最後に、軍隊を持つ云々ですが、
    個人的には末吉は、支那や南朝鮮、ロシアに対する牽制になる軍隊は必要だと考えております。
    それイコール戦争などと捉えてもらわれては困るのですが、極東アジアの情勢を鑑みた時、そろそろ本気で考えなければならないと思いますよ。
    ただ、そのためには、現憲法9条のような曖昧な書き方ではなく、確たる法律が必要です。
     
    最後になりますが、
    長文、駄文にて誤解があってはいけないと思いつつ、大変失礼なところもあろうかと思いますが、是非またの投稿をお待ちしております。
    末吉も勉強させていただきました。
    ありがとうございました。

  4. 末吉 より:

    路傍の石様
     
    はじめまして
    投稿担当の末吉と申します。
    閲覧並びにコメントありがとうございます。
     
    神社では、どこのお社でもそうですが、
    毎月何某かのお祭りがあります。
    是非お近くのお社でもお聞きになってみて下さい。
    きっと新たな発見があるはずですよ。
     
    さて、早速玉井中佐関連のブログを拝見させて頂きました。
    末吉もまだまだ勉強不足でした。
    ありがとうございます。
    本日の護國日誌に掲載させていただき、紹介させていただきました。
     
    英霊が命をかけて護られたそのお気持ちを、
    決して無にしてはならないと思い、
    日々、ご奉仕しております。
    今後ともコメントも含めて、よろしくお願い致します。
    本日は勉強させられることばかりだ。。。
    感謝致します。

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