末吉、入道雲に思う(2)
カテゴリー: 護國日誌
2010年7月25日 日曜日

おはようございます、末吉です(⌒▽⌒)

昨日のつづきです

 

 

B29が本格的に日本本土への空爆を開始したのは、

昭和19年6月15日北九州八幡空襲からで、

その後、断続的に終戦まで続きました

 

空襲警報が鳴り始めると、

入道雲に『黒い点』が浮かび、

やがて

『ドロロロロロロ~~~~~~~ッ』

という重低音を響かせながら

『超空の要塞』

と異名をもつ、B29爆撃機が飛んできて、

最大9トンもの爆弾を

パカッとおなかを開けて落としてきたそうです

 

 

本土空襲での全国の死者は、30万人とも50万人ともいわれています。

また、ご承知のように、広島、長崎への原爆投下により、

多くの方々が犠牲となり、今なお原爆症に苦しんでおられます。

 

原爆は例外として、その殆どが

『焼夷弾』(しょういだん)

を使用しました

 

言葉自体はよく耳にしますが、

簡単に構造を説明すると、

焼夷弾の中身は、ゼリー状の油脂が入っていて、

空中で飛び散り、その後発火して家屋を焼失させるものだそうで、

『ヒュ~~~~~・・・・ドッカ~ン』

と、通常の爆弾のように爆発はせず、

文字通り、家屋を焼き尽くすためのもので、

悲しいかな、日本家屋のような木造建築には一番効果的だったんです

 

 

ちなみに、この焼夷弾、

上空で飛散せず、落ちてそのままの場合がって、

それでも油脂は蒸発しないので

常に発火する状態にあり、本当に危険なんだそうです

終戦から65年たった現在でも、工事現場や造成地などから、

しばしば焼夷弾がみつかり、

大惨事になったケースもあるそうです

皆さんも、発見しても、興味本位では決して触らないように気をつけて下さい!!!

(それはないか・・・)

 

また、焼夷弾が逃げ惑う人々に直撃し、そのまま発火するなど、

本当に悲惨なことが多数あったことも書き留めなければなりません

戦時中のことは敵味方関係なく、とかく派手な事案にばかり目がいきますが、

実際は、本当に身近なところで、とんでもない目にあっている方々がたくさんいたことを

決して忘れてはいけないからです!!

 

松山大空襲でも例外ではありません

これら以外にも、

空襲の後、

不発の焼夷弾を触った児童が焼死した、

田んぼの真ん中に落ちたものを撤去中に焼死した、

など、当時の様子を聞いたこともあります。

 

 

 

 

とりあえず、一休み(⌒▽⌒)

 

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