末吉、沖縄慰霊の日に話す
カテゴリー: 護國日誌
2012年6月23日 土曜日

愛媛縣護國神社裏千家流茶道教室

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第七回稽古日 6月23日 13時~17時(森光宗芳先生)

第八回稽古日 6月24日 10時~15時(江戸宗禮先生)

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こんにちは、

人生楽笑(じんせいらくしょう)末吉(すえきち)です(⌒▽⌒)

 

本日は、

『沖縄慰霊の日』

事実上、沖縄での組織的戦闘が終結した日であります。

 

『二十二聯隊始末記』によると、

『二十二聯隊が玉砕した翌十八日夕、牛島軍司令官は訣別電を発した。

「・・・敵の物量制し難く、戦局正に最後の敢闘に直面せり・・・ここに残存手兵を率い最後の一戦を展開し一死をもってお詫び申し上げる・・・」

十九日米軍の猛攻は続いて摩文仁東方数百メートルに迫った。新垣、真栄里方面は完全に包囲され、西からは米須付近にまで敵戦車と歩兵が進出していた。第三十二軍砲兵は砲を破壊され、弾薬も尽きて徒歩戦闘に移った。牛島司令官はこの日最後の軍命令を下達した。

「・・・いまや刀折れ、矢尽き、軍の運命旦夕に迫る。・・・すでに部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり・・・各部隊はそれぞれの局地における生存者を上級者がまとめて指揮し、最後まで敢闘して”悠久の大義”に生きよ―」ということだった。第三十二軍の組織的抵抗は全く終わった。

    ~  略  ~

二十三日午前四時三十分、牛島軍司令官が洞窟陣地の入り口で軍参謀長長勇少々とともに古武士の作法どおりに自決した。軍司令官五十七歳、鹿児島県出身、死後日本陸軍最後の大将に昇進した。』

と書かれている。

 

沖縄摩文仁にある第三十二軍司令部は、現在閉鎖され立ち入ることができないのですが、

島内あちこちにある『ガマ』と呼ばれる自然洞窟を見ると、それがどのような場所であったか・・・ある程度想像することができ、

歩兵第二二聯隊からは二千七十七柱英霊、

十万県民、将兵が散華された沖縄戦の凄まじさと、

凄惨な戦闘であった片鱗を窺うことができます。

 

本日、

六十七回目の沖縄慰霊の日を迎えるにあたり、

謹んで御神前にてその由をご奉告し、

遥か沖縄の地を遥拝致します。

 

また、

郷土部隊でありました

歩兵第二二聯隊の組織的最後の戦闘の日でもあります今日、

S様からお送り頂いた

今は無き聯隊跡地にひっそりと建つ『聯隊碑』、

初代聯隊旗手であった『櫻井忠温』氏が書かれた碑とともに写真を掲載し、

沖縄戦終結の日を謹んでご奉仕したいと思います。

 

 

 

~本日の予定~

①沖縄慰霊の日

②第七回稽古日 6月23日 13時~17時(森光宗芳先生)

  

~明日の予定~

①第68回愛媛県富山丸戦没者遺族会慰霊祭 午前11時20分~

②丸山陸軍墓地清掃奉仕 午前9時30分~

③第八回稽古日 6月24日 10時~15時(江戸宗禮先生)

      

~明後日の予定~

①万灯みたままつり準備

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